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協会作成資料

研究紀要(二輯)「特集」人権確立に尽くした兵庫の人物群像

(平成13年3月刊行 B5版 167頁)

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編纂委員会メンバー(◎印は委員長)

  • ◎安達 五男 (あんだち・いつお) (武庫川女子大学大学院研究科教授)
  • 上山 勝 (うえやま・まさる) (甲南女子大学講師 ・前武庫川女子大学教授)
  • 大西 善視 (おおにし・よしみ) (宝塚市同和教育協議会会長 ・前宝塚市立長尾中学校長)
  • 鎌田 珠子 (かまだ・たまこ)  (山崎町社会福祉協議会理事 ・前山崎町立神野小学校長))
  • 熊見 尚三 (くまみ・しょうぞう)(揖竜少年育成センター主事 ・前新宮町立新宮中学校長)
  • 堀 正昭 (ほり・まさあき) (社会福祉法人めぐみ会第一仏光保育園長 ・明正寺住職)
  • 堀部 るみ子 (ほりべ・るみこ)  (南淡町文化財保護委員)
  • 前田 昭一 (まえだ・しょういち) (但馬地区人権・同和教育研究協議会会長 ・前豊岡市立港西小学校長)
  • 八木 甫瑳子 (やぎ・ふさこ) (氷上町公民館長・植野記念美術館長 ・前氷上町立東小学校長)

一、人権問題に取りくんだ人物の研究

○兵庫県水平社の結成と地域改善に生涯をかけた清水喜市(しみず・きいち)

清水は、1893(明治26)年現在の神崎郡市川町で生まれ、1940(昭和15)年急逝するまでの47年間を地域の人々の人権を守り、生活と文化を高めることに努めた。神崎郡水平社を創立し、生活基盤を高めるため、村の道路、溝、 そして住宅改善などの事業を完遂し、村長の時には小学校の校舎新築など教育に重点を置いた施策を展開した。彼の人生に一貫するのは熱と人の世に光をもたらそうとする志であった。(鎌田珠子)

○住民の自立をうながした解放運動の先駆者太田顕太郎(おおた・けんたろう)

太田は1896(明治29)年氷上郡成松町で生まれた。当時は「解放令」が出されていたとはいえ、部落差別は厳しいものがあった。彼は、恵まれた体躯と行動力によって逆境をはねのけ、部落解放運動の指導者として成長し、氷上郡水平社の結成、教育事業の推進、部落改善事業の先駆をきる数々の業績を残した。約10年にわたる大事業、川原田の改修を行い、1966(昭和41)年、70歳で永眠した。地域の人々は、この改良田を”顕太郎坪”と名付け、その功績を讃えている。(八木甫瑳子)

○差別の解消に執念を燃やした大部孫太夫(だいぶ・まごだゆう)

大部は1875(明治8)年、城崎郡中竹野村で生まれた。彼は豊岡中学校を卒業した後、地元のために尽力し、二度にわたって村長に推され、優れた業績を残した。とりわけ”部落問題の解決”を目指し、同志を糾合し、私費を投じ藁加工事業を起こした。その事業は不幸にも成功しなかったが、時の知事をはじめ県政中央の眼を惹きつけたほか、地元”地区住民”に「たくましく生きぬく」ことを学びとらせ、今もその名績を知る者は多い。

1939(昭和14)年、64歳で没。(前田昭一)

○『破戒』の市村代議士のモデル立川雲平(たつかわ・うんぺい)

立川は1857(安政4)年三原郡立川瀬村で生まれた。自由民権運動が展開される中で中傷や弾圧にひるむことなく、住民の側に立った弁護士として活躍した。教師として出発したにもかかわらず、代言人として淡路を皮切りに東京、長野、大連へと活躍の拠点を移していった。島崎藤村は『破戒』の「市村代議士」のモデルに雲平を選んだ。「丑松」のモデルといわれる「大江磯吉」とも交わりがあった。立川は1936(昭和11)年79歳で永眠した。(堀部るみ子)

○男女共同参画社会の開拓と障害者教育を活性化した印部すえ子(いんべ・すえこ)

印部は男尊女卑の風潮が強かった1907(明治40)年、三原郡南淡町に生まれた。女学校の教師として勤めたが、結婚し退職。夫の他界後、教職に復帰。その後県下初の女性校長、県教委の障害児教育指導主事、県立盲学校長、県庁初の女性課長を歴任した。退職後も県教育委員長をはじめ多くの役職を勤める。障害児教育に尽力すると共に、障害児教育の精神を生き方の基本に置き、男女参画共同社会のパイオニアとして生涯現役を貫いた。1997(平成9)年89歳で没。(鎌田珠子)

二、人権問題の解決に先駆的な役割を果たした群像

○兵庫県同和教育協議会の発足を導いた岡村武雄(おかむら・たけお)

岡村は1907(明治40)年、兵庫県龍野市で生まれた。1918(昭和5)年、兵庫県社会課に勤務し部落問題を担当。後、東京、神戸での勤務を終え終戦とともに帰郷。1948(昭和23)年、児童による差別事件を契機として、直接県行政に全県的な同和対策、同和教育の先鞭を付けるよう働きかけると同時に兵庫県同和教育中央委員会の結成に参画。1950(昭和25)年、市政施行最初の龍野市議会議員となる。生涯にわたって同和問題の解決に尽力。1953(昭和28)年、47歳で没。(熊見尚三)

○生涯を兵庫の融和運動に尽くした内海正名(うつみ・まさな)

内海は1895((明治28)年宍粟郡安志村で出生し、1914(大正3)年得度し、翌年揖保郡の心光寺の住職に就任し布教活動に専念した。一方、1923(大正12)年には融和事業団体である「清和会」の創立に尽力し、清和会活動の中心的人物として多くの業績を残した。大正13年には本願寺内に「一如会」を組織し、宗門内部の差別の解消に努めた。1945(昭和20)年の枕崎台風で揖保郡は大きな被害を受け、これの復興に尽くす中で多くの業績を残し、49歳という若さで他界した。(堀正昭)

○隣保館活動の先駆者杉本信雄(すぎもと・しんゆう)

杉本は1902(明治35)年3月川辺郡稲野村最光寺で生まれた。若くして現宝塚市の光圓寺住職となり、衆を導くと同時に、地域の環境改善に努め、同和対策に心を砕いた。第二隣保館の初代館長として長年にわたり同和対策としての隣保館事業に取り組んだ。30年前全国隣保館協議会結成されたが、これの組織化活動の充実にも尽力した。更に解放運動、同和教育推進の重要な立場にあって、同和問題の解決に尽くした。

1969(昭和44)年67歳で他界。(大西善視)

○生活改善と改善教育に挺身した穀内寅蔵(こくない・とらぞう)

穀内は1860(万延元)年、三原郡南淡町で生まれた。近代の教育制度が一般に浸透していなかった明治・大正期に、熱血校長として不就学問題に取り組んだ。一人でも多くの児童に教育を受けさせてやりたい一心で被差別部落の子どもたちに登校を促し、夜学の開校、貯蓄の奨励などを実践した。教育は古い因習に囚われることなく平等に受ける権利があることを、身をもって実行した教師である。1940(昭和15)年に80歳で亡くなった。

(堀部るみ子)

○女性救済と厚生活動に尽くした城ノブ(じょう・のぶ)

1872(明治5)年愛媛県に生まれた城は、松山女学校を卒業後洗礼を受け、横浜、弘前、埼玉、九州と伝導生活を送り、1916(大正5)年神戸で「神戸婦人同情会」を創立した。大正、昭和初期の不況期、多くの女性が生きる希望を失い、須磨海岸などで自殺を図った。これに心を痛めたノブは、全国初の「自殺防止札」を建て、悩みの相談にのり、救済、厚生活動に努めた。20年間に全国各地から同情会の施設に収容された女性は三千人を越えた。1959(昭和34)年73歳で没し、芦屋霊園で「与えて思わず」の自筆の墓碑とともに眠っている。(上山勝)

○ハンセン病患者と共に歩んだ大野悦子(おおの・えつこ)

大野は1890(明治23)年、神奈川県小田原市で生まれた。福岡県大牟田市で教員を務め、新聞記者と結婚したが夫は病死。1924(大正13)年、ハンセン病患者のために尽くしてほしいという夫の遺言に従い、明石第二楽生病院に勤務し、看護活動に入る。この病院の経営困難を危惧した長島愛生園長光田健輔の助力により1932(昭和7)年1月、患者と共に愛生園に移り未感染児童施設の教師、1950(昭和25)年、大阪の「白鳥寮」主事。生涯をハンセン病患者に捧げた。1966(昭和41)年、76歳で没。(熊見尚三)

三、継続研究

○但馬國養父郡D村の歴史と部落問題(中)ー明治における村の政治・教育と差別ー

紀要第一輯収載論文につづいて、但馬國の八つの小学校の事例を中心に、明治期において部落の子どもたちの教育実態について研究している。部落の子どもたちの就学は他よりも20年以上もおそく、学制令布達から20年間は無教育の状態におかれていた事実が判明する。それは、単なる差別の封建遺制ではなく、但馬地方の政治がつくり、教育が放置していた問題であった。明治末年以降おこってきた改善教育、融和教育は重大な課題を背負って展開していくのである。(安達五男)

研究紀要(一輯)

(平成12年3月刊行)

研究紀要編纂委員会メンバー(◎委員長)

  • 宿南 保 地方史研究者
  • ◎ 安達 五男 武庫川女子大学大学院研究科教授
  • 中西 又夫   日韓教育文化研究会代表
  • 出口 公長 (社)日本タンナーズ協会専務理事(学術博士)
  • 上山 勝 前武庫川女子大学文学部教授
  • 塚崎 博行 佐用郡南光町立上津中学校長

但馬国D村の歴史と部落問題(安達)

論文では 「なぜ部落史を学ぶのか 」「 部落の形成と差別の編成」について触れ、「近代から現在にかけての部落差別は、単なる封建遺制ではなく、近・現代の歴史の中での、政治や民衆意識の産物であった」ことを述べようとしています。ある学生は自分の町や村の史実に拠った部落史学習の中で、友だちにも自分の村や町のことを話すようになりました。部落差別の呪縛から自分を解放することができたのです。明治4年の解放令後近代社会に入ったのに、どうして差別が解消しなかったのか、もちろん部落差別だけでなく、女性差別も残り、人種差別はむしろ拡大しました。但馬国D村の歴史の中にその真実を発見しょうというのが、本論文の内容です。

文化財としての姫路白鞣し革(出口)(上山)

技法的には千年の歴史があり、その伝承と考察を述べ、秀吉が信長に革二百枚を贈ったこと、参勤交代の土産に西国大名が姫路や室津で求めたこと。蘭学医シーボルトやロシア人ケンペルやオランダ人フィッセルなどの日本旅行記や、十返舎一九の紀行文にも姫路革や細工の美をほめていること、伝統的な名称の考察など白鞣しの優秀さや特色などについて執筆しました。地元の古文書から生産量やや大阪問屋との関係や作業工程などにも触れ、厳しい労働や作業の中で全国的にも誇りうる皮革工芸品を創り、美術史にも高く評価される伝統品としての姫路革の歴史をまとめました。

加藤弘之と解放令(宿南)

出石藩士加藤弘之は江戸へ出て学問を学ぶうち、幕府の学校の教員に採用され、思う存分洋書を読むことができる機会に恵まれました。そして開眼したのが、すべての人は生まれながらにして自由で平等等であるとの「天賦人権思想」です。この説に基づいて彼はわが国では初めての立憲政治を説いた本を書きました。その中で議会の重要性を説き、ついで幕府の学校の他の教員たちと共に、その具体化とし設立を提唱し、やがて新政府にも採用されたのが公議所です。1869(明治2)年、彼はここに身分をなくすための建議を致しました。これがその翌々年の解放令公布に大きな影響を与えました。

文禄・慶長の役と民族への偏見(中西)

韓国を旅すると秀吉の悪行の数々を聞かされます。文禄・慶長の役が韓国の歴史におとした陰影は濃く深いです。ところがわが国の秀吉像は全く異なり英雄として讃えられています。国際化社会における人々の歴史認識は、国境を超えた多面的理解に基づくとともに、何よりも人権尊重の視点に立つものでなければなりません。秀吉の出兵も彼我の史料をつき合わせて検証していくなかで、その実態が浮かび上がってきます。本論文では今日なお払拭しきれていない旧身分意識や他民族への偏見の根を織豊時代にさかのぼって洗い出し、偏見解消に役立てようとしています。

兵庫における障害児教育の先駆者たち(塚崎)

養護学校の義務制が実現したのは1979(昭和54)年のことです。ところが有馬郡名塩出身の三田谷啓(さんだやひらく)はその50年以上も前の昭和2年に知的障害児を対象に「三田谷治療教育院」を創設しました。また、聴覚障害児の教育では松谷富吉(まつたにとみきち)が大正4年に「神戸聾唖学校」を開校し、視覚障害児の教育では左近允孝之進(さこんのじょうこうのしん)が明治38年に「神戸訓盲院」を設立しました。この三人を中心に先駆的な事業をまとめ、本県の障害児教育の歴史を「人権としての教育」の視点を持ちながら執筆しました。

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